吉野弘さんの詩 祝婚歌に以下の 一節があります。
とみに複雑さをました現代、“これは絶対正しい”と言い切れることはなかなかないと思うようになりました。私自身、過去を振り返ると思い込みの正義感や自分が正しいとの勝手な認識でまわりの人にずいぶん迷惑をかけてきたと、歳を取るほどに思い返すようになりました。そして今でも同じ間違いをして後悔することもたびたびです。
近年ネットも含め、メディアが途方もなく発達し情報量が爆発的に増えたせいか、様々な媒体から発信される情報や議論が、目立つがための極論に走り、異なる意見には激しく反応したり、断定的に責めたりする場面も多くみられるようになりました。もともとそんなに違わなかった意見でも、メディアを通せば無理やり二極化され、却って合意しにくくなってしまいます。メディアが実質的な世論を作り出しているゆえに、その影響が心配される今日この頃です。
自らが決心を迫られたとき、どの選択肢がよいか判断できず悩むことがあります。私は特に難しい課題の時はできるだけ深く考え、「これだけ考えたのだから間違っても許してもらえるだろう」と自らを納得させ、判断するようにしています。それでも決めた案が点数にして45対55とかあるいは49対51くらいの差で、間違った方を選んでしまうことが起こります。しかし迷うということはどのみち僅差だった筈ですから、たとえ1,2点、あるいは10点前後まずい方の案を選んだとしても、その後の努力でいくらでも逆転できると考えます。そして、たとえ間違いであっても後悔せずに、それよりも決めた後が大切と考えるようにしています。実際、よくする努力を続ければたいていの場合、その判断の方がよかったと言える結果に繋げることが可能です。
これと同じような考え方が他人との間、社会や国のなか、あるいは国際関係の場でもできないものかと考えます。
通常、皆が同じような情報を共有していれば、意見や判断はそんなには違わなくなるはずです。違ってくる原因は、過去の経験や立場、とりわけ持っている情報の違いによる部分が多いと思います。しかしこれだけ複雑で膨大な情報があるとその共有は簡単ではなく、結果として異なる意見や判断が生まれます。そんな場合でも前述の、自分の中での迷いと同様に、実はかなりの部分は同じで、違いはほんの僅かという場合も多いはずです。
しかしメディアは視聴率や関心を高めるため、敢えて違いを強調する方向に持っていきます。社会や国がある選択を迫られたとき、迷った挙句の結論であっても、わずかな差を意図的に拡大し、関係者間の溝を深めているように感じます。火事と喧嘩は江戸の華といわれるように騒ぎを大きくするのが目的なのかと不信を持ってしまいます。少しの違いを埋めあうのは楽ですが、無理に引き離された意見は、その後、決して合意に至らず、結論が出ても反対だった人の力を結集することができません。もとは49対51くらいの有意差なら議論を重ねてギャップを埋め、そして合意することが可能なはずです。そうすれば全員が合意した同じ目標に向かって力を合わせることができます。真摯な議論の末にようやくコンセンサス(合意)を得られた場合でも、「妥協した」、「勝った、負けた」、という捉え方にしてしまいがちです。妥協という言葉には、「妥協を強いられた」とか、「安易に妥協した」とか、とかく負のイメージで理解される言葉です。こんな場合は、「お互いに譲り合って合意した」というような前向きの言葉を使うだけでも、ずいぶん社会の明るさは違ってくるのではないでしょうか。
議論をディベーティングと勘違いしたり、勝ち負けのような捉え方をしたりして不信感を増幅させるのではなく、互譲や相互理解(相互信頼)を大切にする視点で報じ、論じてほしいと思います。
近頃、冒頭の吉野弘さんの詩とは違って、正しい(と自分が勝手に思っている)ことを居丈高に主張することがよしとされる風潮が強くなっています。いかに複雑な問題であっても単純化し、YesかNoか、はっきり言い切った方がむしろ評価されます。 しかしこの混沌とした世の中では、100人いれば100通りの意見がでてきます。そんななか、決められないのは優柔不断といわれます。しかし深く考えれば考えるほど迷いが出てきて、却って決められなくなってしまうこともあるのです。その意味で優柔不断が悪いのではなく、慎重に考えた証左であって、そういった迷いの中にこそ真実が潜んでいると考え、むしろ大事にすべきだと思います。世論調査などのアンケートで、分からないとの回答が一番多いというケースをしばしば目にします。極論を戦わせるより、分からないと答えた人の意見を取り上げ、その原因を深く掘り下げ、一緒に考えていく方が建設的ではないでしょうか。二極化した意見を取り上げてディベート感覚で議論を行い、敢えて紛糾させ、最後は勝ち負けで判断するのでは決してよい結果は生まれません。二極化の後にどちらかを選択すると反対意見の人は納得しないので協力もしません。それより少しずつ譲り合って合意した意見の方が全員参加の協力が可能で、その後は更によくなっていくと思います。
古来、和を以て尊しとなすといわれてきましたが、嘗ては外国人も同じ心情と思い、事業などの交渉の時、初めから妥結案を提示しました。一方、欧米では最大利得を初期値として交渉を始めるのがルールのため、主張の中央値で妥結しても、結果は相手が勝ちとなってしまいます。つまり0対100からスタートし、中央値の50を探し出すことが外国人との交渉ですが、50対100の主張でスタートし中央値の75で決まると25だけ損をしたということになります。さすがに今ではそれはなくなり、とりあえず最大利得からスタートしますが、メディアの論評を気にするためか、今度は逆に一歩も譲らないという姿勢になり、纏まらなくなることも増えてきます。ようやく纏めても、無理に批判的になろうとするメディアは‘交渉に負けた’と報じがちです。本来win‐winを目指す交渉に勝ち負けがあってはなりません。お互いが譲り合い、痛みを分かち合う、その点では公正であるべきと考えます。嘗て小村寿太郎が日露戦争後の交渉結果を批判され、国際連盟で席を蹴った松岡洋佑が喝采されたのは、交渉の真の意味を理解していなかったからかもしれません。最近では、TPPや地球温暖化問題など、難しい交渉が増えています。国内での議論とは別に、国益を守りつつ世界に信頼される外交やビジネスの交渉力が求められます。
嘗ての雪印乳業事件では(もともと悪意があったり、死者が出るまでに至ったわけではありませんが)、記者が企業や経営者を夜討ち朝駆けでしつこく追及し、社長交代はもちろん、罪のない人のリストラで多くの家族や生産者を苦しめ、ほぼ倒産に近いバッシングを行いました。最近のSTAP細胞騒動でも連日これでもかという責任追及を続け、ついに犠牲者まで生んでしまいました。いずれもそこまでやる必要が本当にあるのかと疑問を持ちます。同じような目にあったら自分も持ちこたえられないだろうと想像します。いったい何が目的でこれほどまで弱った人を叩くのか理解に苦しみます。
責任追及ばかりでは対策にはつながりません。責任者を引きずりおろしたり、犠牲者をたくさん出したりして溜飲を下げているのでしょうか。とてもさみしいことです。本当に大切なのは真の原因の究明です。原因が分かれば対策に繋がります。古くから「罪を憎んで人を憎まず」と言われてきました。そういった優しいこころを私たちは持っていたはずです。
最初に掲げた祝婚歌の句の前に次の一節があります。このフレーズを引用してこの稿の終わりとさせていただきます。
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