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DIPROニュース

2004

8月号

2004.08.10

8月に思うこと―自ら考え決めることは難しい

今年の関東地方では空梅雨が話題になるなか、北陸地方では局地的な集中豪雨で大きな被害が出ています。一方各地で記録的な熱暑となり、甲府や北関東などで40度を超えたといったニュースもありました。このような現象は単に自然界だけでなく人間の世界も同様に、様々な現象の振幅が大きく、また極端になってきたように思われます。

猛暑のなか、今年ももうすぐ終戦記念日を迎えます。この時期になると毎年戦争にまつわる様々な話題がメディアに取り上げられます。経済活動も企業間の戦いの側面を持つことから、しばしば戦争に準えて語られます。「日本人とユダヤ人」で有名な評論家山本七平はご承知の方も多いと思いますが、自らの戦争体験から独自の日本人論、日本文化論を展開しました。そのなかに20年程前に書かれた「空気の研究」という著書があります。この書での主張は、「日本人の意思決定はその場の空気によってなされる」というものです。例えば戦艦大和の出撃の是非について、「全般の空気よりして、(大和の)特攻出撃は当然と思う」という発言が出ると、それで決定されてしまう。このようにその場の空気に支配され、本当は自らが否定していた内容通りに行動してしまうことが珍しくない。そしてなぜそう決めたかと改めて問われればやはり、「あのときの空気から言って、ああ主張せざるを得なかった」となる。「空気」と「論理・データ」の対決として、「空気が勝ち」の過程が明快に語られています。この「空気」とは何か。非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ、「判断の基準」であり、抵抗するものは異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力を持つ超能力と揶揄されています。つまり、その場の空気に反する意見をいうことは、「水をさす」といわれるように、よくないことに近いニュアンスが既に込められています。実はこの「水をさす」意見が自由に言えることが大切なのですが・・・。

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このような論理性や意志とは対極にある、空気による支配や自己の否定(滅却)は、短期決戦、局地戦では効果がある場合もありますが、長期戦、戦略戦ではうまく行かないことは明らかです。そして「空気が決める」いう指摘は今の日本にそのまま当てはまると感じることが少なくありません。自らの行動や意思決定にあたり、その場の雰囲気にしたがって動き、決めていないか、過去の悲惨な戦争の経験から、私たちがそうなりやすい日本人であることを自覚し、行動することの大切さを改めて思います。

もう一つ、これも以前読んだ本からの引用で少し気が引けますが、印象に残ったので紹介したいと思います。経済学者の岩井克人著「二十一世紀の資本主義論」に有名な英国の経済学者ケインズの書にあるパラグラフが紹介されています。それは「美人コンテスト」についてで、新聞紙上に掲載された100人の女性の写真から読者が投票で6人の美人を選ぶというコンテストです。しかしこのコンテストは審査員が選ぶのではなく、読者からの得票が最も多かった6人の美人に投票した読者に多額の賞金をあたえるという趣向です。読者が賞金をかせぎたいとき、どう投票すべきでしょうか。自分が美しいと思う人に投票しても無駄です。そうではなく、自分と同じ立場に立って誰に投票しようかと考えている自分以外の人の好みに合うと思う顔に投票しなければならない。この場合選ばれる美人とは、その顔が美人であると平均的な読者が予想すると平均的な読者が予想する・・・・と平均的な読者が予想している美人なのです。これが続くと美人であるということは、それぞれの読者の個人的な判断からも、読者の平均的な意見からも無限級数的に乖離していき、そこにあるものは「予想の無限の連鎖」だけということなります。これは投機的市場の、不安定性の原因の一つであるとしています。個人が合理性を狙うと全体の非合理性を生み出すという「合理性のパラドックス」がここにあります。これがもとで実体経済も撹乱されてしまうことがしばしば起きます。このような現象は、現在投機市場だけでなく様々な分野で起きているのではないでしょうか。予想の連鎖や、シミュレーションと実体の交錯の結果、別の実体が生まれてしまうという現象が近年の情報化やマスメディアの急激な発達で拡がっています。株価もその会社の実力以上に勝手に上がり、悪くなると極端に下がり経営者が厳しく批判されている図はしばしば見受けられます。経営者が実力以上に(自らの意志で)株価を上げたわけではないのに、その反動として下がった時に責任を追及されます。これは本来、投資家が自己責任を負うべき部分も多いと思います。この他、ファッション製品に限らず様々な「ブランド」も、この美人コンテストのプロセスが巧妙に組み込まれ、形成されていく場合が少なくありません。

同様に情報システムの世界でも、そのソフトウェアプロダクトの真の性能・機能よりも、あるいは真のソリューションを提供できるベンダーか否かといった中身よりも、「それがデファクトになるであろうと他者が予想するであろうと・・・と予想する」といった、「予想の無限の連鎖」の結果や、自ら考えることなくブランド力だけに頼る姿勢もしばしば見受けます。どうしてこういう現象が起こりやすくなったのでしょうか。少し過激な言い方かもしれませんが、今の日本は、ある種の「思考停止状態」に陥っているのではないかとの危惧を抱きます。

この稿のはじめに、振幅が大きくなったり、事象が極端化するのは気候現象だけではないと述べましたが、一つ目の話題の、「その場の空気が物事を決める」ということや、二つ目の、美人コンテストの例で見られる「予想の無限の連鎖」や「ブランド化」は、情報化社会やシミュレーション社会の持つ極めて強力な増幅作用により、無意識のうちに自ら考えるという力を失わせていると思います。そして個の自立や自律的行動力が弱められるにつれ単にマスメディアの増幅器機能だけが残り(本来マスメディアではいろいろな意見が戦わされるべきと思いますが、異論を唱えるほど勉強していないためか、"空気"のせいか、残念ながら殆どが同じ方向を向いてしまいます)、結果として判断や動きを同一方向に振幅を増し、事象の極端化が進んでいくのではないかと思います(その分その後の反動の振幅も大きくなります)。

こういった不安定性や、実体と判断の根拠との乖離を防ぐには、情報が溢れ過ぎている現実から一旦距離を置き、「自分は今、空気やまわりの情報に影響され過ぎていないか」、意思決定や行動にあたり冷静に再確認してみることが従来にも増して重要になっているように思います。情報会社に身を置き、ある分野の情報化を推進してきた立場のものがこういうことを言うのは自家撞着ではないかといったご批判があるかもしれませんが、自戒の意も込めて書かせて戴きました。

(代表取締役社長 間瀬 俊明)

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