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DIPROニュース

2012

9月号

2012.09.10

英語に失敗した私

1. はじめに

コストパフォーマンス(費用対効果)がよい、わるいといった表現は製造業でしばしば使われます。人生は壮大な暇つぶしと喝破した方もいらっしゃいますが、限られた人生、できるだけ有効に使いたいものです。コストパフォーマンスの概念を人生にあてはめれば、タイムパフォーマンス(時間対効果)でしょうか。仕事や趣味などで費やした時間の割に成果が少ないあるいは上達しないとがっかりします。私にとって以前から特にタイムパフォーマンスが悪いと思っていたものが二つありました。それは英語とゴルフです。この二つは時間をかけてもうまくならない双璧でした。

それを理由に、大分前に英語とゴルフを諦めました。それ以降は精神的なゆとりと物理的な時間が増え、何か得をした感じがしました。しかし最近、それで良かったのかと振り返ることがあります。ゴルフはともかく、英語についてはグローバル化で外国人とのコミュニケーションの必要性が増した昨今、もう少しましな接し方があったかもしれないと悔やまれることがあります。ではどうしたらよかったのか、議論百出する危険なテーマですが、日本人と英語について敢えて自分の失敗経験をもとに考えてみました。

2. なぜ英語が苦手か

言葉には、話し言葉と書き言葉があります。書き言葉はそれを持たない言語があるように、もともと別物といってよいほどです。社会に出てまず必要になるのは、外国人とのコミュニケーションや交渉など主に話し言葉です。インターネットの時代になり、読み書きの必要性も一層高まりましたが基本はやはりコミュニケーション手段としての話し言葉です。

私は英語、とりわけ会話が苦手です。自分の努力や能力不足を棚にあげて理由を探せばやはり嘗ての英語教育にいきあたります。学校で時間を費やした割に(嫌いだったこともあり)話す能力は全く身につきませんでした。その頃の授業は英文解釈、英文法、和文英訳といったもので、ヒヤリングやスピーチを学ぶことはありませんでした。おそらく当時の先生は、英語を十分に話せなかったのではないかと思います。

人は生まれてからおおよそ「聞く」「話す」「読む」「書く」の順に言葉を覚えます。前段の「聞く」「話す」はいわゆる話し言語です。赤ちゃんのときから毎日母親を中心に言葉のシャワーを浴び、2歳前後から急に片言をしゃべり始めます。まず耳(聞く)と口(話す)から入るのです。それができるようになるとひらがなや漢字を読むようになります。小学校に入るとようやく書く練習をします。「読む」「書く」は書き言葉です。しかし嘗て私たちが学んだ英語は前段がなく、後段の「読む」「書く」ための英語、すなわち書き言葉でした。これらは五感で言えば目(読む)と手(書く)を中心とした学習です。話し言葉で使うのは耳と口ですから鍛える五感が全く違います。つまり人が生まれて就学までの6年間をかけて覚える話し言葉の学習を省いていることになります。私の場合、会話力がほとんどないなか就職し、しばらくして外国人との会話が必要になったとき、とりあえず頭の中で日本語を英語に直す作業(和文英訳)をやってなんとかごまかしました(当時はごまかしたとは思わずそうするものと思っていました)。一方、生の英語をほとんど聞いたことがなく、すでに退化した自分の耳ではネイティブスピーカーの英語を聞き取れません。断片的に分かる単語から適当に類推し(ブランクの多い英文解釈)、頭の中で(文法を考えながら)英作文をしていました。これがいけなかったのです。英語を日本語に、そして日本語で考えてから英語にといったスピードは歳を取るごとに遅くそして下手になるという経過を辿りました。いわんや英語でのスピーディなディスカッションなど論外です。それになんといっても耐え難いのは少ない語彙で話すため、12歳くらいの知能に戻ってしまうことです。その心理的な圧迫感やコンプレックス、さらに自己嫌悪などは本当にいやなものです。

最近楽天の三木谷さんの「たかが英語」を読んだところ、“英語モードの切り替え”が大切とありました。つまり頭の中で翻訳するものではなく、下手でも英語のまま、しかも“かたまり”で覚え、英語の世界で会話せよということです。赤ちゃんが言葉を覚える世界と同じです。私もかなり前に気づき英語モードを心がけましたが手遅れでした。楽天の社員(特に年齢の高い人)がうまく乗り越えられるか興味があります。今考えれば英語の授業は、話し言葉を習う意味ではむしろさまたげであったと思われます。

3. 英語公用語化の是非

「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」という水村美苗さんの本があります。著者は幼少時からアメリカに住みましたが英語になじめず日本から送って貰った日本語の小説を読んでいたそうです。また英語を避けるため仏文学を学び、米国の大学で日本近代文学を教えていた方で、作家としていくつかの文学賞を受賞されています。日本語や日本文学について深い理解と考察をされています。20年以上米国に住まわれたことから英語にも精通した方です。英語が世界の共通語(普遍語)になるにつれ日本語が(もちろん他の言語も)「亡びる」ことに大きな危惧を述べられています。確かに英語で発信しなければ決して日本を世界に理解してもらえません。さりとて素晴らしい日本固有の文化や文学は日本語でしか表せないし創れないとして英語の公用語化(日本人全てがバイリンガルを目指すこと)には否定的です。全員があれもこれも学ぼうとすることは言葉の場合成り立たない、それを目指せばやがて日本語が亡びると言われています。

一方新聞記者出身の船橋洋一さんは「あえて英語公用語論」という著書で、その体験から日本の各分野(とりわけ政治)の指導者層が英語でコミュニケーションできないことによる情報発信不足や政治・経済上の損失は計り知れないと指摘されています。特に戦前の日本の失敗は世界と対話する言葉や方法を持たなかったことにあるとし、21世紀の日本が対話の失敗を繰り返さないためにも、教育行政のなかで解決を図るべきとして英語を第二公用語にすることを主張されています。

両方を読んでみるとそれぞれに説得力があり、どちらの立場をとるべきか、本当に悩ましくなるばかりです。そんななか水村さんはいずれにしても日本には、

Ⅰ:国語を英語にする
Ⅱ:国民全員がバイリンガルになる
Ⅲ:国民の一部がバイリンガルになる

の3つの選択肢しかないといわれます。船橋さんの公用語論はⅡにあたりますが、水村さんはⅢを主張されています。つまり必要とする人をエリート教育するという立場です。日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材で、それは並大抵なことではない。しかし早くそうしなければいずれ日本語は亡びると。

もう一人は先述の三木谷さんです。世界一のインターネットサービス企業になるためには社内公用語を英語にすることが必要と2010年から壮大な実験に取り組んでいるとのことです。これからの日本企業は世界企業にならない限り生き残れない、もし日本人に英語力があったなら今日のような経済的な凋落を招くことはなかった、それほどグローバルなコミュニケーション能力すなわち英語力が重要であるとしています。

3者3様ですが、いずれにしても英語の重要性はどなたも認め、課題はそれを国家レベルで、企業で、そして個人としてどのように受け止め実践していくかにあるといえます。

4. 文明が大切かあるいは文化か

日本をはじめ英語が母語でない国が英語をどう位置づけるかは、その国の文明や文化をどう考えるかに拠ります。司馬遼太郎の「アメリカ素描」という著書に、「人間は群れてしか生存できない、その集団を支えているものが、文明と文化である。・・・文明はたれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なものをさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(例えば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他におよぼしがたい。つまり普遍的でない」とあります。

普遍的なもの、言い換えれば文明的な事柄を伝えるには同じ言語が都合がよいし、広く使われている言語が効率的です。一方不合理さこそ文化の発光物質であり美しさであるとすればその言葉でしか表せないものがあるということになります。文化を語る言葉がなくなればいずれその文化も消滅するでしょう。水村さんと船橋さんの意見の違いは単純化すれば文明と文化のどちらに重点を置くか、あるいはグローバルとローカルのどちらを重視するかの違いと言っていいようです。

5. 非英語圏ではどうなっているのか

日本のように国語である日本語がこれほど充実し、1000年以上に亘って文化や知恵が蓄積され、そのうえ英語の日本語訳も充実していると、英語がなければ生きていけないという状況にはありません。それゆえに却って国民全員の習得が難しくなります。英語の世紀に入った今、言語においてもガラパゴス化しつつあるのを感じます。英語公用語論は英語がデファクトスタンダードの地位を得たため、日本でデジュリスタンダードと位置づけることであるともいえます。

それでは日本以外の英語が母語あるいは国語でない国は実際どのようになっているのでしょうか。英語を公用語にしている国の多くは、かつて植民地であったとか、多民族国家であるとか、共通語としての英語と現地語(その民族の言語)の双方を知らないと日常的に生活できない、あるいは国として統治できないという状況にあるようです。

私が少し係わった国や大学の例をあげてみます。マレーシアのUTeM(University of Technology Malacca Malaysia)という、実践力を重視する工科大学では講義の8割は英語とのことでした。同国はもともと植民地であったことや多民族国家であり、日常的に英語に接する機会が多いことからうなずけます。さらに理系科目は、マレー語に訳された専門書や書籍が少ないためむしろ小学校時代から英語で教えた方がよいとの政策を進めました。しかし期待に反し英語での理解が難しく却って学力が落ち、今は元に戻そうとしているとも聞きました。難しいものです。そのほか韓国の著名な工科大学KAISTも多くは英語で授業をしているとのことで、学生の英語力は日本より高いと感じました。ソウル大学も似た状況でした。このように大学で英語による授業を日本より多く行えるのはその国の方針だけでなく、自国語に訳された専門書が日本ほど十分でないことや、教授陣のほとんどが米国の大学を卒業しており、英語で教えられることが背景にあります。中国でもある程度英語で授業が行われ、それによる戸惑いや不都合はあまりないとのことです。そのうえ発展途上国では世界で活躍するには英語が必須のため、家庭教育(塾通い)も率先して行われているようです。

一方でフィリピンは英語が古くから公用語にされ、話せる人が多かったため、戦後出稼ぎとして多くの人が外国に出てしまいました(800万人が海外に出稼ぎに行っているという)。そのため国内産業が発達しないという悪循環に陥り、未だ低迷をしています。翻って日本人は簡単に海外に出られるほどの英語力がなかったため国内にとどまり、却って戦後の発展にとって都合がよかったとも考えられます。

これらから考えると、英語上達にとって本当に効果的なのは、

① 日常話したり聞いたりする機会が多い
② 使えないと生きるのが大変(例えばインド人のSEが日本に働きに来るとき、3か月とか半年の集中教育で話せるようにする)

といった逃げられない環境と強いハングリー精神を持っていることです。日本ではその両方ともないのがうまくならない大きな理由ともいえます。

最近東大で秋入学に変更する方向の検討が始められ大きな話題を呼びました。学期を合わせるのはグローバルな人材交流にとって重要ですが、本当は日本の大学で外国人留学生も満足できる優れた英語の授業ができるか、そしてそれを日本人学生も理解できるかが、より大きな課題ではないかと思います。

6. これからどうすべきか

英語を公用語にする(国民全員が英語を使えるようにする)のか、国民の一部がバイリンガルになる(英語力エリートを育てる)のがよいか、あるいは各企業が自己防衛的に社内公用語化で個別に対応するのか、それとも他の選択肢があるのでしょうか。

私はいずれにしても水村さんのいわれるⅢのエリート教育は必須と思います。しかし厄介なのは言葉を覚えるのに適切な時期に、将来高い英語力が必要になるのはだれか、本人すら分からないことです。それをどうしたら解決できるのでしょうか?

外国語はいつから始めるかが重要です。母語は生まれると同時に学習し始めているわけですから、早い方がよいのでしょう。その場合、本来赤ちゃんが覚えるような自然なプロセスがよいとすれば、最初は単なる音としてまた楽しんで聞くくらいでよしとすべきです(できれば小学校で)。これは英語モードに浸る訓練と音に慣れるためです。そして中・高では必修コースと選択コースを用意し、選択コースは各人が将来の進路を考え、必要と思う人が自由に選ぶのはいかがでしょうか。小学生のときから英語に接することに異を唱えているのは英語の達人で有名な鳥飼玖美子さんです。早期化や必修化、そして英会話重視の教育も信仰に過ぎず効果がないと断罪されます。私は、小学校時代は教えるという視点自体が間違っているように思います。音楽やスポーツと同じように左脳ではなく、右脳あるいは体で覚えればよいといったレベルにとどめます。たとえその後すっかり忘れてもあとで無意識下に役に立てばよいのです。いずれにしても早期に接する効果について判断できる科学的な研究が必要です。

さて、第一レベルは小学校から高校まで必修で、簡単な日常会話や海外旅行で不便しない程度の“話し言葉”のコースです(このコースは他の科目を犠牲にしないよう今までの英語学習時間内に押さえます)。第二のレベルは将来ビジネス上の交渉事や働くときに外国人とのコミュニケーションをほぼ行えるレベルを目指すもので中学からの選択コースにします。そして第三はエリートコースで、将来、日本をアピールしたり国益に直結する仕事に必要なレベル、例をあげれば政治家や官僚、ビジネスマンなどが、各種サミットや外交、ビジネス交渉などの場ではっきりした英語で深い考えを主張し、英語を母語とする人やそれに近い人と十分にディスカッションできるレベル、あるいはスイスで毎年行われるダボス会議のような影響力のある場でプレゼンし議論できるレベルです。第三レベルは高校からの選択コースです。

ところで3つのコースを作っても、問題は教えられる先生が十分いるかということです。とりわけ第一レベルは英会話能力を問われます。さりとて今英語を母語のように話せる先生をそろえるのは不可能です。そこでこのコースは先生ではなく、全て情報技術に任せてはどうかと思います。最近はe-ラーニングが充実し、優れた設備や教材も揃えられることや、学齢や習熟度に合った映画やアニメ、教材をうまく組み合わせるなど、楽しみながら、そして興味を持って進められる授業にすることです。次の第二のレベルは「読む」「書く」が中心ですからこの方はよい教材と教え方を開発すれば会話コースほど先生の問題はなさそうです。第三はトップ水準の英語力を目指します。これは教え側(英語を母語とする先生)も受講側も少数精鋭、本物同士のぶつかり合いが要求されます。このようにすれば個々人の英語のニーズに対応した教育が可能となり、英語の世紀にあっても私のような失敗を起こさなくて済むように思います。

英語教育の問題は長いこと議論され、いまだ結論がないまま今日に至っています。それほど難しい、二項対立的あるいは国論を二分、三分するテーマです。きっと皆さんもそれぞれの立場でいろいろな意見をお持ちと思います。私のような古い人間があれこれ考えている間に若者は着々と英語の力をつけているのかもしれません。それとも最近のコンピュータを使った翻訳や音声入力の正確さなどを見ると、近い将来スマートフォンのような簡単な道具を身につけていればいかなる言語も人よりも正確に同時通訳してくれる時代が来そうな気もします。そうすれば今まで述べた文明と文化の相克やコミュニケーションの問題など全て氷解してしまうのでしょうか。

(追記)

ここで述べた英語への接し方は、グローバル化時代にあって、日本の政治的、経済的合理性を追求する視点で考察したものです。有名な社会学者ベネディクト・アンダーソンは、グローバル化を経済面ではなくそこで生きる人と人のつながり、すなわち思想や理念のグローバル化の次元からから捉えようとしています。そして「学ぶべき価値のある言葉は、日本語と英語だけと考えているような人は間違っています。その他にも、重要で美しい言語が沢山あります。本当の意味での国際理解は、この種の異言語間のコミュニケーションによってもたらされます。英語(だけ)ではだめなのです。保証しますよ。」(梅森直之編著「ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る」)と言われています。英語化の流れの中で日本語や他言語の大切さも含めて失ってはならない大切な視点と思います。

(最高技術顧問 間瀬)

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