小説では、450万部を突破し、映画の観客動員数では700万人を超えたという「永遠のゼロ」の話から始めさせていただきます。小説・映画の何れも感動的な内容であったのと同時に、時代背景や社会情勢に関わらない人間としての在り方の正しさや人を思いやる気持ちの美しさというものを認識させられた作品であったと考えています。
日本人というハイコンテクストな文化(その場の背景や文脈、意味付けを感じ取り、少ないコミュニケーションで意思疎通する)の中においても、それを超えたところにある答を見つめることができた稀有な人物のストーリーであったと思います。
そういった視座で、ものづくりに携わる人々の心のあり様やあり方を、考えてみたいと思っています。
他でもない零式戦闘機は、当時の航空技術の頂点を極めており、それが先の小説でも繰り返し描かれています。筆者は、1980年代の後半にコンピュータメーカーの富士通にシステムエンジニアとして入社しましたが、当時の所属部門の長が、ゼロ戦のものづくりの話を引用して、品質への拘りの大切さを説いていたのを記憶しています。
ソフトウェア開発(情報通信業)におけるものづくりは、物の形状や素材特性に振られる製造業のものづくりに対して、人が決めたルールや他の無形のソフトウェアに左右される不安定な世界です。一般のものづくりで、部品・素材が変わるとシミュレーションや実験?試作が必要不可欠になるのと同様に、ソフトウェア開発では、作業ルールの管理や利用条件に合わせた綿密なテストが重要とされます。品質管理の理論に基づいた作業の効率化や創意工夫もさることながら、拘りと地道な努力を持って、執拗に改善へ取り組む姿勢が要求されます。
当時は、知的労働に従事しながらも「この仕事は、気力と体力だ」などと、自らの悲哀を込めて話していたことを思い出します。
それにしても、入社当時は、今思えばいい時代であったと思います。実務の中でも、時間を忘れて品質改善に関する議論がありましたし、先輩社員と居酒屋へ行っても、仕事そのものの話題で議論をすることがしばしばありました。そんな環境であったので、仕事の内容一つひとつに拘りを持って、思いを込めることが出来たように思います。そのような環境下であったからこそ、ソフトウェアにしても物を造る面白さがあり、それを仲間と共有し共感できました。
この20年、30年の様々な社会環境変化や経済変動の結果として、どの企業でも業績・成果や効率というモノサシを使って仕事が評価されるようになり、一つひとつのものに対する思いを持つことが難しくなってきました。それぞれの作業も、成果や効率を考える毎にスピードを意識せざるを得ず、単位時間あたりの量は増えていきます。お客様である製造企業様でも「昔は、部品ひとつの設計に数週間はかけていたものだ。今では、一人で○部品を一週間で仕上げなきゃいけない」などといった悩みを伺う事があります。
また、外転化や海外移管の話もあり、ものづくりの技術にのめり込むシーンは、確実に減ってきています。安価な人件費、ロジスティックスも含めた効率化を図るほどに、ものづくりの現場は新興国へとシフトしていきます。一時期はMOT(技術経営)という言葉が取り沙汰されもしましたが、これは大学などの教育機関のテーマへと変わりました。ものづくり組織自体は、企業経営の六重苦などの課題そのものに翻弄されざるを得なかった現実があります。ものづくり企業として勝ち続けるため、苦渋の決断をして歩んできた足跡を振り返ると、自らが技術と向き合う場を手放していく道であった、ということかと思います。
私たちソフトウェア技術者は良いソフト製品やサービスをお客様にお届けする仕事をしていますが、やはり品質の話題を取り上げる度に「効率は?」、「採算性は?」という話題と向き合うことが増えました。こういった「利益が出なければビジネスの価値はない」というルールが、良い方向に出るならよいのですが、実際には、技術の追求心や品質向上の意識に水を差す、という結果を招いてしまうことも多々あります。
一般にも、企業活動の力学においては「効率化」や「革新活動」、「顧客志向」という異なる方向性の力が牽制し合って働くものではありますが、この折り合いがつかぬままに、ものづくりの現場は、我々の目前からフェードアウトし、技術者が抱く熱い思いも徐々に薄らいできた、とも言えそうです。
児童文学作家のミヒャエル・エンデは、その作品である「はてしない物語(ネバーエンディングストーリー)」や「モモ」の中で、「虚無」に浸食されていく社会や「時間」に追われる人々を描くことで、現代の経済システムの在り方に警鐘を鳴らしましたが、それこそが現代社会で実際に起きたことだ、と言えます。
話を日本のものづくりに戻します。数年前にソニー・チャイナ・インクの元会長が書かれた本(小寺 圭著「ヘコむな、この10年が面白い!」)を読んでショックを受けましたが、そこでは日本がものづくり立国を諦めざるを得ない世界のものづくり産業の構造変化と日本の産業が進むべき道の提言が述べられていました。そこでは「日本は、モノづくりを卒業し、コト興し(事業創造)で生きていくべきだ」といった提言がありました。
このような変化の波の中で、我々はどうやって、将来のものづくりに思いを馳せ、若者に希望やモチベーションを持たせてやればよいのでしょうか?
そしてまた時代の流れは速いものです。社会の出来事に翻弄されている間に、人や組織は変化を受容していきます。グローバル化について言えば、BRICKS、VISTA、NEXT 11、PC16と次々と台頭する競合の中にあり、旧来の企業間の競争とも相まって四面楚歌とさえ感じられる状況です。事業戦略に則り、海外への事業移管を進めるにしても、国民気質や組織風土の違いもあり、なかなか技術の移管ができないとか、育成した人財が辞めてしまう、技術だけが盗まれる、といった問題も起きてきます。更には、それらの結果、外転化で人件費やロジスティックスのコストは下がろうとも、問題処理のコストが増えるといった悩みも広がっており、これが深刻です。当然ながら、移管先となる相手国の人の気質や風土を批判する声も出てきがちになります。
昨今は、ビジネスの最適解を考える中で海外移管を諦めて日本国内に戻すことになった、という話も聞きます。「一体何をやっているのか分からない」という嘆きの声も聞こえてきそうです。
前述した状況が今後も続いていくとすれば、我々の観念や価値観を変えるべきなのかも知れません。「人生は心一つの置きどころ」とは中村天風の言葉ですが、物事の捉え方を変えることで、自分の気持ちも変わり、行動も変わり、日常の作業からビジネスも変わっていくのであれば、それに勝る処方箋はないように思います。
例えば、ビジネスの在り方のスタンスを変えてみる方法はあるでしょうか。使い古された発想かも知れませんが、「近江商人の三方良し(売り手良し、買い手良し、世間良し)」や「後工程(次工程)はお客様」などの発想で、気持ちの上で、敵対的に考えがちな海外の仕事相手を「仲間」としてとらえる、ということができるかも知れません。
また、予想もしないことが起き続ける世界の経済環境の中で、当事者の責任を問う姿勢や、物事を被害者的に受け止める姿勢ではなくて、「起きた事から学ぶ」という学習者の心理的スタンスを維持することができるでしょうか。これについては、質問思考と呼ばれる技術が知られています(マリリー・アダムズ著「QT 質問思考の技術」)。
或いは、災害の周期説ではありませんが、変化の大きな流れを捉えることはできるでしょうか。
発展途上国は、切っ掛けは別としても、安価な労働市場や資源供給者として搾取され、やがて第二次、第三次産業が興り、やがて豊かさの中で成熟した産業構造や国家形態に移行していきます。この発展の後期では、国民の精神性の向上と同時に、国民の物質欲の飽和や変容がみられます。
地球システムが終章を迎えていると言われている今、これら変化のプロセスは加速の一途を辿っており、起きている現実から次の展開が予測できるようでもあります。時間軸の中で一歩先の視点が持てれば、渦中の人々を導くガイドラインになり、支えになります。
このように、広い視野のオーナーシップ(当事者意識、参画意識)や大局的視点、学びを選ぶ姿勢、先見の視野などを持つことで、変化の常態化した社会に、安定感を持たせられないだろうかと考えます。そういったことから、ものづくりに携わる人たちに希望を与えられないだろうかと考えています。
グローバルな社会ではグローバルな価値観があるべきです。日本のものづくりの在り方を憂えるのではなく、世界のものづくりをどうしていくかに理解力や知恵を使うべきかと思います。
自分達の子や孫は、現代よりも更にグローバル化が進んだ、国境意識の薄い世の中に生きるはずです。その社会では、工業製品は想像も出来ないほど高度に技術を結集させたものへ進化していくでしょう。それは、国や企業による排他的競争・競合関係の産物ではなく、協調・協力関係の視点で、事業が展開された結果の産物だと思います。 ものづくりのパートナーが、お互いのコンテクスト(文化的背景や史実が残した影響)と、お互いの長所・短所も受け入れながら、技術的にも動機付け(気持ち)の面でも、密接なコミュニケーションや交流をして、ものづくりの「知」を豊かな社会のために使っていく世界のはずだと思います。
自分たちの子孫は、そんな社会に住まわせたいものだと考えています。
(技術ソリューション部 部長SE 吉野 琢也)
PICK UP